上野天神祭の概要・歴史

上野天神祭とは?

大正期に撮影された神輿

「上野天神祭」とは、上野天神宮の秋祭りです。上野天神宮は菅原神社とよばれ、伊賀市上野東町に鎮座する、菅原道真公を主祭神とする神社です。

上野天神祭の「神幸祭」(本祭の巡行)では、上野天神宮の2基の神輿(天満宮神輿・九社宮神輿)の供奉行列として、鬼行列と楼車(だんじり)の行列が続きます。

鬼行列は、三之町筋に面する町々(総称「鬼町」)からの出し物です。「役行者列」が三鬼会(相生町・紺屋町・三之西町)から、これに続く「鎮西八郎為朝列」が徳居町から出されています。

それに続く楼車は、本町筋・二之町筋に面する九つの町(総称「楼車町」)からの出し物です。それぞれの町が1基ずつ所有し、9月9日に上野天神宮で行われる「鬮取式(くじとりしき)」で決定された順番で曳き出されています。

これら一連の行列が、「上野天神祭のダンジリ行事」として、2002年(平成14年)2月12日に国重要無形民俗文化財に指定され、また、2016年(平成28年)12月1日(日本時間)には、ユネスコ無形文化遺産に「山・鉾・屋台行事」33件の一つとして登録されました。

上野天神祭の特色として、印(しるし)と鬼行列、印と楼車という、囃される物と囃す物とが対になっているということなどが、特に認められました。

10月25日までの直近の日曜日を中心として、祭礼行事が行われます。

上野天神祭の歴史(近世~現代までの経緯)

1.天神祭礼の再興

上野天神祭は、江戸時代前期の1660年(万治3年)旧暦9月に再興された祭礼です。当時「天神祭礼」と呼ばれたこの祭礼は再興というものの、それ以前のことは詳らかではありません。

伊賀国を治めていた藤堂藩の許可のもと行われた天神祭礼の行列は、再興後程なくして丸之内(城内)へ巡行するようになりました。藩主も見物することから、町人の街として栄えた三筋町(本町筋・二之町筋・三之町筋)の町々は、出し物を競い合い、趣向を凝らした行列となりました。たとえば、3代藩主・藤堂高久が御覧になった1688年(貞享5年)の天神祭礼では、「石引」の行列や、牡丹・梅・菊の「作り花」の行列が記録されています。(『統集懐録』)。

2.練物とだんじりの展開

介添人に支えられる役行者

鬼行列のなりたち

三鬼会の「役行者列」が天神祭礼に登場するのは、この祭礼の歴史の中で比較的古いことです。1690年(元禄3年)の記録に、「神事のねり物」「増長天」「面」と表現されており、これが「役行者列」の四天の一つ「増長天」であると考えられています(服部土芳『蓑虫庵集』)。なお、引用文の練物(ねりもの)とは、仮装の行列の事です。

この行列は、役行者の大峰山への峰入りの様子を模したもので、大御幣(おおごへい)を先頭として、悪鬼・八天・四天・役行者・先達・ひょろつき鬼などが続きます。

徳居町の「鎮西八郎為朝列」の登場は、それから約100年遅れ、1798年(寛政10年)頃に成立したと考えられています。源為朝が鬼退治を終え、凱旋する様子を模した行列です。

だんじり行列のなりたち

今日、楼車を出す本町筋・二之町筋の町々でも様々な練物が出されていました。たとえば中町では、1731年(享保16年)の天神祭礼で、鷹匠の練物から母衣武者(ほろむしゃ)の練物へと変更されたと考えられています。小玉町では、1751年(寛延4年)の天神祭礼から、今日に続く七福神の練物が登場しています。

本町通を巡行するだんじり

つまり、楼車は、それらの練物より少し遅れて登場します。江戸時代には、「台尻」「檀尻」と表記され、また「山鉾」とも呼ばれた楼車は、18世紀後半の登場と考えられています。1756年(宝暦6年)の向島町の「花鉾」や、1759年(宝暦9年)の中町の「其神山」がその原初とされています。

3.出し物の固定化と菅公千年大祭

1802年(享和2年)の菅公九百年祭を契機として、19世紀前半(化政期)に現行の行列形態が、ほぼ固定化しました。その様子は、1840年(天保11年)の版画「伊賀上野天満宮祭礼九月廿五日行列略記」(版木は、伊賀市指定文化財)に詳しく描かれています。

1902年(明治35年)4月には菅公千年大祭が行われ、こうした鬼行列・楼車の他、三筋町以外の町々などからも練物や囃子屋台がこの時限りで出され、非常に盛況でありました。江戸時代以来記録に残る紺屋町の楼車「花山」は、この時を最後に途絶えています。

なお、本祭の日程は、江戸時代には旧暦9月25日、明治初年の太陽暦採用により新暦10月25日、ユネスコ無形文化遺産登録を契機として2017年(平成29年)からは10月25日までの直近の日曜日となっています。